京都某所、人目につかない場所。いや、ここの場合はむしろ人目をわざわざ避けているという方が正しいのだろうか。人ごみ溢れる大通りからは少し内に入った、そんな場所でひっそりと営業している喫茶店があった。やはり普段から人の入りが少ないそこには、自然とその店で働き続ける一人の主人の世界が満たされている。閉じた喫茶店という空間には充分過ぎるほどの愛情と思念、全くといって客のこないこの喫茶店がいつまでも潰れずに成り立っているのはそれが理由かもしれない。
 今この喫茶店にはカウンターの内で静かに佇む主人と、一人の少女がいた。響くのは少女が口につけたカップがソーサーに当たる乾いた音だけ。まるで時間の流れが止まってしまったかの様に錯覚させるほど静かな空間だった。
 カラン、カラン。
 ただ、ただ無機質に流れていた時間にその音はなだれ込んできた。
 この音がなだれ込むというのに違和感を覚える人間が中にはいるかもしれない。言われてみるとこの喫茶店の扉が開いたこと自体はなんら変わりのない、いたって普段通りのこと。しかし、ジュークボックスからスウィングジャズが跳ね踊り、クーラーから肌寒いほどの息が吐き出され、サイフォンからコポコポと呼ぶコーヒーが香る。そんな空間に確かにその音はなだれ込んできた。時間を忘れ鳴き続けている蝉の声と共に、高い湿度のむっとした外気と共に、夏の青々とした緑の匂いと共に。そして
「六時五十分、今日は二十分の遅刻ね」
「正しくは十八時五一分二六秒よ」
 誇らしげにそう答えた、少女と共に。
「胸をはって威張っているところ悪いけれど、その訂正は誇らしげにあなたの状況を悪化させているだけよ」
 一人の少女は椅子に座りながらため息をついた。マエリベリー・ハーン。呼び辛いとの理由からいつもはメリーと呼ばれている、鮮やかな紫色のドレスにふわりと広がる金色の髪、京都の大学では相対性心理学を専攻している。物事の結界を見ることの出来る、キモチワルイ眼を持った少女。
「だって、せっかく今日はこんなにも星が綺麗にでているんだもの、時間は正確にしておきたいじゃない」
 一人の少女は嬉々とした表情のまま向かいの空いた椅子へと座った。宇佐見蓮子。お気に入りの黒いキャップと胸元の赤いネクタイ、首元で短く結ったリボンがゆれる、メリーと同じ大学で超統一物理学を専攻している。星を見て時間を知り、月を見て場所を知ることの出来る、キモチワルイ眼を持った少女。
 そんなキモチワルイ眼を持つ二人の少女が揃った。そのことは、先程までこの喫茶店に漂っていた空気をガラリと変えてしまう。時間が止まった空間に新たな流れを作るような、そんな小さいけれど確かな変化を呼び起こす。二人の姿を瞳に映した主人が微笑む。
「さてと、今日も始めましょうか」
「あら、始めるって一体何を?」
「何をって決まってるじゃない」
 一瞬の静寂のあと、少女はこう続ける。
「秘封倶楽部の活動をよ」
 さて、ここに出てきた秘封倶楽部とは一体何なのかと問われると、その返答には非常に困ることとなる。『自称霊能力者系オカルトサークル』というのが普段の肩書きだが、まともな霊能活動をしていない不良サークルな以上、その肩書きすらも怪しい。いや、そもそもまじめなオカルトサークルとは何かと問われるとそれはそれで困るのだが。確実に言えることはといえば、この二人の少女が揃って初めて成り立つそれ以上でも以下でもないただの大学生のサークル活動。と悩んだ末2人は答えるだろう。二人にとっては一緒に買い物をすること、旅行へ行くこと、喫茶店で語り合うこと、全てが秘封倶楽部の活動になるのだ。
「…っとそんなこんなで、私は二十分ほど遅刻をしてきたわけ。つまりこの二十分はメリー貴方にとっては退屈な二十分だったかもしれないけれど、私達秘封倶楽部にとっては有意義な二十分だったってこと」
「正確には二一分二六秒じゃなかったのかしら。それに仮にその二十分は有意義だったとしても、果たしてそれを説明するためにあなたが雄弁を揮ったこの二十分間は無駄じゃなくて?」
 しかし、どうやらメリーにとって一人で退屈そうに紅茶を飲む時間は活動に入らなかったようだ。ほんの少し悪意を孕んだ笑顔のまま、メリーは蓮子に見えるように手首を蓮子へ向けて腕を伸ばす。えっと驚いた顔で蓮子は窓から夜空を眺め時間を確認する。両の網膜には澄み切った夏の夜空に輝く星々が映る。現在の時間を知り、先程自分の口から出した時間から逆算をする。熱く語っていたのは自分だけで、手元のほぼ手付かずのまま残っている珈琲も、正面でうんうんと頷いていたメリーもすっかり冷めてしまう程の時間が過ぎていたようだ。
 今までの独白を続ける自らの姿が急に恥ずかしく思えてきた蓮子は、まるで火にかけすぎた薬缶のように顔の隅々まで真っ赤なり「マッ…マスター、アイス珈琲一つ急いでお願い」お茶を濁すために咄嗟の注文をいれた。アイスにしたのは無論自らの火照りを少しでも冷ますためである。
「あら、まだカップに残ってるけどいいの?」
 慌てふためく蓮子の姿を見ながら頬を緩め、メリーは自分の紅茶のカップに手をつけた。皮肉めいた表現を使っていたが、メリーは蓮子に対し待たされたことへの怒りなどは全く感じていなかった。ただ少しのイジワルをして秘封倶楽部の活動という花に華を添えたかっただけ、それだけだ。
 二人は秘封倶楽部をもう随分と長く続けてきた。お互いを知り、活動を始め、二人で笑いあって。それは一方通行という時間の境界すら越えていると思えるほどの長い時間。たとえ少しの間でも二人で一緒にいる時間は、二人だけの世界の時間を作る。そしてそれよりももっと長い、それを思い出して笑いあう時間を作り出す。その繰り返しの時間の連鎖を二人は過ごしてきた。
 そんな長い時間をメリーと一緒に過ごしてきた蓮子は、秘封倶楽部という存在自体をとても誇らしく思っている。蓮子が見つける不思議な現象に見せるメリーの表情、どれも蓮子にとって大切な花。そんなことを考えながら、楽しそうに雄弁を振るっていたのだ。
 そんな長い間、蓮子と一緒に過ごしてきたメリーは秘封倶楽部に華を添えることに楽しみを覚えていた。少しの自分の機転で見せる蓮子の表情は、どれもメリーにとって大切な華。そんなことを考えながら、蓮子の話を聞きながらくすくすと微笑んでいたのだ。
 さてその蓮子はといえば、そんなメリーの考えも知らずアイス珈琲一杯を早々と飲み干したはいいものも、火照りを抑えきることが出来ずに未だしどろもどろなままだった。
「そ、そういえばメリー」
「何、蓮子。どうしたの顔が真っ赤だけれど、もしかして風邪でもひいちゃったんじゃない? ほら夏風邪は長引くっていうから…」
「そうじゃなくて…ああもう!」
 頭から被るのではないかと思えるほどの勢いで、蓮子はカップに残っていた冷めたエスプレッソを一気に飲み干した。
「そんな話じゃなくて。あのね、もうすぐしたらお盆で世間は連休じゃない? 私はバイトも全部あけてるんだけど、メリー貴方は何か予定とか入れてるの?」
 口の両端に珈琲をつけながら蓮子は話す。そう言われてメリーは蓮子の発言の意図を読み取ったのだろう。顎辺り指を近づけて、悪戯な笑みを浮かべたまま答える。
「予定ねぇ…うん、今のところ予定も無いし今年はこれといってまだ決まってないわね。それより蓮子。あなたはどうしてわざわざその時期を空けているのかしら? 連休ならいつもよりお給料もいいのじゃない?」
「ふふふ、よくぞ聞いてくれました。実はねメリー、私すごいものを見つけてしまったのよ」自らのペースを取り戻し瞳を煌めかせる蓮子は、遊び道具を見つけてはしゃぐ子供のようだ。「まぁ、言葉で言うよりも先に実物を見てもらった方が面白いわね。メリーにはどう見えるのかも気になるし。それじゃあまずこれを見て欲しいの」そう言って蓮子は小脇に大切そうに抱え込んでいたトートバックの中を漁り、1枚の写真を机の上に広げた。
 一本の大きな木を写した写真。恐らくは桜の木だ。元は美しい活気に満ちたピンク色の写真だったのだろうが、長い時間により変色し、物悲しさを匂わせるセピア色へと変わってしまった一枚。薄い色に広がる地面の上にそれだけが佇んでいる。
「ねぇ蓮子、この写真が一体どうしたの?」
「まだ気づかないのメリー。ほらここの部分をよく見て」
 蓮子はそう言いながら木の根元辺りを指差した。目を凝らして見ると、そこには二人の人影のようなものがあった。その部分にさらに注目しようとした、その瞬間だった。
「わっ!」「きゃっ…!」
 突然の物音と同時に二人のつくテーブルの真横、月の光に照らされていた窓が大きく開いた。二人のいる内側から、外へ向かって。開いた窓の向こうからは夏独特の青臭さを乗せた一本のつむじ風が吹き込んできた。風は一度メリーの長いブロンドヘアーをぬるりと撫でるように吹き抜けた後、その狙いをテーブルの上に変えた。そう、二人が今まで見つめていた写真のある方向へ。
「あっ!ちょっとメリー、その写真押さえて!」「えっ!?」
 帽子を押さえながら蓮子は空いたもう片手をやり、そしてメリーも蓮子に応え腕を伸ばす。二人の掌は明らかに風が写真に吹く、それ以前にテーブルの上へと置かれていた。
 にも関わらず、気付いたとき写真はテーブルの上から姿を消していた。風に乗り、二人の手などまるで最初から無かったかの様にするりと抜け、今は憎らしげに天井から影を揺らしながらひらひらと宙を舞っている。そして、呆然と見上げる二人の顔を一通り眺めた後、いつの間にか開け放たれた入り口のドアから悠然と流れ出ていってしまった。
 ああ皮肉にも、二人は本当に喫茶店の空気を換える流れを作ってしまった。残されたのは椅子から立ち上がったままの少女二人だけ。あまりの一瞬の不思議な出来事に唖然とし、開いた口が塞がらないまま、写真が飛んでいった方向を見つめ続けていた。
 どれくらいの時間が経ったのだろう、先に口を開いたのは蓮子の方だった。
「ねぇメリー、何なの今の変な風。私達のあの写真だけ狙い澄ました、生き物みたいにうねっていたけれど…」
 その言葉にメリーからの返事はない。先程までの口を開いたままな状態と、今の口を閉じ俯いた状態との変化はあれども、まだあの衝撃から立ち直っていないのかもしれない。
 一方の蓮子は、メリーへ向けて言葉を吐くことで少しは昂ぶっていた心が落ち着いたのだろう。ふくらはぎに当たる椅子の脚にふと気付いた。足元で気付かぬうちに倒れていたようだ。それをゆっくりと拾い上げテーブルへ肘をつく。
「本当に一体なんなのあの風は。だいたいおかしいじゃない。強い風で扉が開くのは当然理解出来るけれど、内側から外に向かって開くなんて。そう、あれじゃまるで…」
 私達のいる店の内側から見えない誰かが窓を開けたみたい。そう言いかけた口を蓮子は強く噤んだ。いくら『実力派オカルトサークル』の身とはいえ、予期せぬ怪奇現象には少しの恐怖を感じてしまう。それに怖さと同時に、今は有力なサークル活動のネタを失ってしまったショックも大きかったのだ。両肩から力が抜けていくのを自ら感じる。
「あぁ、もうどうすればいいの。あの写真は大学のサークルからサークルを私が丹念に渡り歩き、二十分遅刻してまでのやっとで見つけた特ダネ中の特ダネ。もしかしたら、あんな写真二度と手に入らないかもしれないのに…」
 口から溢すようにそう吐きながら、帽子を外し頭を抱え込んだ。
 しかし自称京都一の実戦派サークルのナンバーワンである宇佐見蓮子。この程度の肩透かしで挫ける程柔には出来ていない。両の手で髪を掻き散らしながら、深く深く思考を巡らせる。手に入れるまでの手順、方法、全てを噛み締め現在考えられるの最善の一手を考える。考えることさえ出来れば、あとは少しの勘と運で状況は好転すると、そう彼女は信じ行動しているからだ。
 そう考えに更けているとき、蓮子はテーブルの天板から、ふとメリーの方へと視線を移した。同じ秘封倶楽部の一員である彼女ならば、自分の考えをも読み取って、同じように何か次に打つべき手を考えているだろうと直感したのだ。しかしその期待はいとも簡単に打ち砕かれた。テーブルの向こう側のメリーは、未だ鳩が豆鉄砲食らったような顔のまま、じっとテーブルの一点を見つめていた。
「ねぇメリー、あなたも少しは考えてみて…」
 察しの悪い相棒に呆れるよう、そう言葉に出しかけたとき、蓮子はあるものに気付いた。
「ねえ蓮子、これは一体何なのかしら?」
 自分の目に映るものの存在を改めて確かめるようにそう呟いて、メリーは指差す。先程から動いていないメリーの視線の先、そこには一枚の紙が置いてあった。先程のつむじ風で飛ばされてきたのかとも考えられるが、それにしては汚れもなく不自然なまでに角が立っている。裏面を見えるようにして置かれているその白さは、思わず人為的な不気味さを感じてしまう程だ。
 紙の方向へと落としていた視線を持ち上げて、二人は目を合わせる。お互いの瞳の中には不安に揺れる光と、好奇心に揺らめく光が同時に存在していた。一度ゴクリと喉を鳴らし頷いた後、蓮子は恐る恐るといった動きでその紙を手にとる。胸元近くへとスライドさせ、表面へと返す。
 そのとき、初めてその紙が何かの広告であったことがわかった。そしてそれにはこう印刷されていた。

『下鴨納涼古本まつり』

 それは大学入学から京都に住むようになった蓮子とメリーは初めて聞く言葉だった。
 レトロ感を演出するためなのだろう、セピア色で全体がデザインされた広告には同じく時代を感じさせるチープな字体で書かれた文字列が目に入る。
『いざ来たれ、幾万モノ古ノ文字』『熱く照らす京都、木陰のテラスで飲ム汗かきしラムネ』『皆ノ衆、今宵祈るハ玉依姫命でナシ、吾等ガ古本の神ナリ』『白キてんとノ迷宮ヘよウこそ京ノ阿呆共ヨ』
 いかにも奇怪に並ぶその文字達。それに『本格的霊能力者サークル』を自負する蓮子が惹かれないわけがなかった。両目で文字を追いながらも、既に蓮子の脳内では広告の向こう側の光景へと繰り出す自らの姿が再生されていた。
「ねぇ蓮子、一人で夢中になっているけれども、一体その広告には何が書いてあるの?」
 その声に飛びつくかのように、蓮子の視線はメリーの方向へと返された。目の前の現実では、肘をついたメリーがニヤニヤとした表情でこちら側を見つめている。噛りつくようにして広告の世界に潜る蓮子を見て、メリーも気付いたのだろう。さっきまで見せていた不安げな様子は今や消え、自分を楽しませてくれる蓮子の言葉をただ待ちわびている。そんな笑顔へと変わっていた。
 その期待に応えるよう、蓮子は自信に満ちた表情で立ち上がる。
「メリー、たった今、私達のお盆休みの計画が決まったわよ」
「へぇ、一体何なのかしら。何も分かっていない無知な私に教えて下さる?」
「まったく、世話が焼けるメリーね。そんな調子じゃ秘封倶楽部ナンバーツーの大役は務まらないわ」
「私は蓮子がいないとナンバーツーどころか秘封倶楽部そのものすら務まらない普通の人間ですもの。では改めてまして宇佐見蓮子様、私にも教えて頂けないでしょうか?」
「メリーにそこまで頼まれちゃ仕方がないわね。んじゃ特別に秘封倶楽部ナンバーワンこと、私宇佐見蓮子が教えてあげるわ」

 どんっ、テーブルに蓮子の手が叩きつけられた音が響く。
「私達秘封倶楽部の次の活動は場所は『下鴨納涼古本まつり』この会場よ」
 こうして今日も秘封倶楽部の物語が始まりを告げる。
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